孤独のスーパーヒーローが歌う、「俺たちの勝ちだ!友よ」の意味【映画ボヘミアンラプソディー感想】
個人主義の世の中。常に、わたしがやりたいことはなんなのか。あなたはどうあるべきなのかを、私たちは問われ続けています。
「みんな違う人間だ」と独立した自由を認められるということは、「誰一人自分と同じ人がいない孤独」を同時に意味しています。
孤独に苛まれながらも強く輝くように生きたフレディ・マーキュリーの人生を描いた『ボヘミアンラプソディ』が、これだけ多くの人に受け入れられ大ヒットしているのは、誰もが孤独を感じているこの世の中と無関係ではないように思います。
フレディ・マーキュリーという、スーパー・マイノリティの物語
映画の大半の時間、クイーンという一つのバンドの成功と、並行してフレディ・マーキュリーが孤独に陥っていく様が描かれます。
映画を見ながら僕は、最近界隈で取りざたされる、「一つの分野で100人に1人の人材になって、それを3つの分野で行えれば、100x100x100で100万人に1人の人材になれる」という話を思い出していました。マイノリティの掛け算が、どれだけフレディを孤独にしてしまったのだろうか、と。
ペルシャ系の両親から生まれながらイギリスに生きたフレディはパキ野郎と揶揄され、さらにはセクシャル・マイノリティであることを自覚します。
ただでさえマイノリティであるのに、世界でも指折りのロックバンドのボーカルに上り詰めたことによってさらに孤独を強めていくことになります。世界の誰一人として彼に共感できる人はいなかったでしょう。誰一人として自分を理解してくれないとしたら、果たしてこれほど苦しいことが他にあるでしょうか。
何百万人に一人の成功者は、それだけで強いマイノリティと孤独を得ることになったでしょうが、それだけではなく出自とセクシャリティが彼をより強い孤独に導いたのだと描かれているように思いました。
映画の中盤、自分がゲイであることを受け入れ、口ひげと短髪の、私たちにはおなじみの風貌になったフレディが登場するシーンがそれを象徴しています。
豪邸を建てたフレディは、いやに明るくメンバーに食事をしていくように誘いますが、メンバーは「妻も子供もいる」とすげなく断ります。
同じく「成功者の孤独」を分かち合うことができたかもしれないバンドメンバーは、妻と子供を得て家庭を築き、きっと成功者の孤独を味わいながらも、それでも家庭に帰ればマジョリティな世界に触れることができたのでしょう。しかしフレディは、セクシャルマイノリティだったことでそれすらも叶いませんでした。
ソロ契約をするとフレディがバンドメンバーに告げたときに、メンバーからは突き放されるように、「400万ドルで友達を買えよ」と言われます。これも、フレディの孤独を象徴するシーンでした。
メアリーの結婚指輪
それでもフレディは孤独に抗い続けているように見えました。その象徴が、ガールフレンドのメアリーとの関係です。メアリーに指輪を渡してプロポーズする時に、フレディは「何があっても外さないでくれ」と言い添えます。
その後もフレディは、メアリーに対し「運命の人だ」「人生をともに歩みたい」と何度となく口にします。
フレディにとってメアリーは、マイノリティである自分をマジョリティの世界に繋ぎ止めてくれる存在であるという風に僕には思えました。
フレディがメアリーに対して、自分のセクシャリティをカミングアウトするシーン。
「僕はバイセクシャルなんだ」
「違うわ、あなたゲイよ」
このやりとりは、ボヘミアンラプソディーという映画を、ひいてはフレディマーキュリー という人物を象徴する会話であると思いました。
ゲイであるとメアリーに認識されてしまうと、一緒に人生を歩む理由がなくなってしまう。それはフレディにとって孤独を意味する。
しかし、クイーンがバンドとして成功する一方で、フレディはメアリーにボーイフレンドを紹介されてしまいます。指輪をつけていないことをフレディが聞くと、メアリーは「失くさないようにしまってある」と答えます。ここからフレディは本格的に自分を見失っていったように見えました。
出自、成功者、セクシャリティとマイノリティの極地に立ち、誰よりも強い孤独を感じ、さらには不治の病に冒されたフレディ。
そしてライブ・エイドへ!
映画ボヘミアンラプソディーのもっともエキサイティングなシーンが、最後のライブ・エイドのシーンであることに異論はないでしょう。ここまでの畳み掛けるような孤独と絶望から、ライブへ向かうカタルシスが、この映画を傑作たらしめていると僕は思います。
孤独と絶望の淵に立ちながらも、クイーンのボーカルとしてライブ・エイドの舞台に立つことを選んだフレディが、75,000人を前に激唱します。
狂気をも思わせるようなパフォーマンス(ピアノの前に座った時のラミ・マレックのイっちゃってる目の演技!)で会場を沸かせるフレディ。
75,000人の人々はフレディの声に、一挙手一投足に合わせて熱狂します。ライブ会場にいない人々も、フレディの歌声に飛び跳ねます。今まで離れていった人々も、テレビでフレディの歌声を耳にします。ライブの目的であったチャリティの目標金額は達成されます。
この、孤独から一体感への振れ幅!最後のライブシーンに凝縮されたカタルシス!
フレディはなぜバンドに戻ってライブ・エイドに出たがったのか?
メンバーを説得するのに「死ぬその日まで後悔することになるだろう」と告げたくらいでその理由は、あまり描写されていないように見えました。
不治の病に冒され死を覚悟し、生きた証を残したかったのかもしれない。
父の教え「善き思い、善き言葉、善き行い」を成し遂げたかったのかもしれない。
それともただ稀代のロックバンドであるクイーンのボーカルを全うしたかったのかもしれない。
最後、ライブで演奏される数曲が、フレディの心境を演出しているように見えました。
Radio GaGaは、消えゆくものとフレディ自身を重ね合わせているように聞こえ、Hammer to Fallは来るべきその時を暗示しているようにも聞こえます。
そして、最後の曲「We Are the Champions」でマイノリティ中のマイノリティ、たった一人孤独の淵に立たされてきたフレディはこう歌い上げます。
「俺たちの勝ちだ!友よ」(We are the champions - my friends )
映画の中で丹念に、マイノリティの強烈な孤独に苛まれ続けたフレディ・マーキュリーの様子を描写しておいて、最後の最後に、世界中に向けて「俺たち全員チャンピオンなんだぜ!」と歌い上げたのです。
感想
「これだけヒットしたんだからそのうちテレビでやるでしょ」って思ってる人、すぐ映画館行こう。たぶんまだ間に合う。
ライブシーンの迫力は劇場で見たほうがもちろんいいけどそれだけじゃなく、ラミマレックの演技が良すぎる。「妊娠おめでとう」っていうシーンとか、病名告げられて俯くシーンとか、電気スタンドをつけたり消したりするシーンとか。
そして何より曲がいい。当然全編通じてクイーンの曲が使われているんだけど、いちいち感情揺さぶられる。映画見終わってからクイーンのアルバムしか聴いてない。普段洋楽を全然聴かないうちの奥さんが延々クイーン聴いてるから。劇場の音響で曲を聴くだけでも価値があるのに、物語と構成のとんでもなさよ。ああいい映画だった。もう一回観に行きたい。
孤独もマイノリティも超えて歌い上げる孤独のスーパーヒーロー、フレディ・マーキュリー。LGBTの権利やや個人主義が取り上げられる今の時代に映画のテーマとして取り上げられるのは必然だと思いましたし、映画が大ヒットしている事実が世の中の孤独感を反映しているのかなとも思いました。
セクシャリティはデリケートな話ですし、小難しいことを語るつもりはありませんが、マイノリティが抱える孤独の一端を感じることができたのも、この映画に出会ったことで得られた良いきっかけの一つであるように思いました。